月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

2.涙



これは、夢か?
アンジェリーク。
長い間、名を呼ぶことさえ許されなかったひとよ。
おまえの声が聞こえる。
なんと言っている?
私に何を伝えたい?
この女王試験が終わろうとしているのだな……?
そしておまえはすべてのしがらみから開放され、己の道を行くのだろう。

どうか、その道は、穏やかであれ。
これは、私の本心だ。
なんの、偽りも無い。

にどと、出逢うことはなかろう。
だが、おまえのこの先の人生は煌く光と、穏やかな闇につつまれて。
どうか、幸せであれ。

そうか、今宵は、あの日と同じ
―― 月さえも眠る夜なのだな

◇◆◇◆◇

異例の女王試験が開始され、何度目かの新月の夜のことである。
この時、ふたつの大陸 ―― フェリシアとエリューシオンは共にあと一度、望まれた力を送れば大陸の真ん中に到達しようとしていた。
最後の最後まで先の見えない試験であった。
大陸の数でも、守護聖の推薦でも均衡を保っていたふたりの女王候補の力量。
しかし終に、フェリシア、女王候補ロザリアの大陸に、最後のサクリアが炎の守護聖によって送られたのである。
その日、飛空都市の空に、大量の流星群が確認された。

そう、滅び逝く旧宇宙の星々が新たな女王誕生をきっかけに、新しい宇宙へと移動されたのだ。
それは256代目にして新しき世界の初代女王の初めての任務でもあり、255代目女王の最後の務めでもあった。
滅び逝く宇宙。そしてそこに現われた虚無の空間。
新しき宇宙にその悪影響を及ぼさぬよう最後までそこに留まり空間を閉じた前女王アンジェリーク。
彼女はいったい、そこでなにを思ったろう?

終にその姿のないまま即位式は荘厳に執り行われた。
そして、そのまま、彼女が新しい宇宙へと戻ることはなかったのである ――

◇◆◇◆◇

「ディア様が、意識を回復なされたとか?」
即位直後の慌ただしさも少し落ち着いたある日、新女王ロザリアが親友に尋ねる。
ライバルとして過ごした飛空都市での日々は、ふたりをまたとない友人同士へと変えていた。
試験に敗れたといっても、けして劣ることの無い資質を持っていたアンジェリークは女王補佐官の正装に身を包み、悲しそうな視線をロザリアに向けた。
「ええ……目を覚まされてすぐに、アンジェリークは?って」
彼女の言う『アンジェリーク』とは、目の前にいた自分のことでないことは、明らかだった。
かつて、スモルニィで学生時代を過ごし、長い間共に宇宙を支えてきた友人の名前。
しかし虚無へと繋がる次元回廊の前で力尽き倒れていたのは、前補佐官のディアだけであった。
「なんて答えていいか分からなくて。そしたら、『そう……彼女は最期まで、女王だったのね』って……」
少女の翡翠の瞳から涙がぱたぱたと零れ落ちる。
ひとりにしておいて、暫くのあいだでいいから。そう言った姉のような存在の人になんにも、言えなかった。
「そう。でもね、あんたが泣いてちゃだめでしょう?」
慰めの言葉にこくんと頷き、きゅっと涙を拭い、笑顔を作ると女王である友人を見る。
「ねえ、ロザリア、私たち、この宇宙を一緒に守っていこうね。絶対よ」
そう言った、どこかまだ補佐官というには頼りなさげな少女を見て、蒼い髪の美しい女王は少し意地悪げに、でも親しみを込めた笑みをもらす。
「どうだか。あんた、すぐにでも恋人みつけて、結婚退職しちゃうんじゃない?」
「えええ〜。いまんとこ、そんな人、いないわよう」
―― そりゃ、素敵な人はぞろぞろいるけど。
心の中で、そう付け加える。
アンジェリークは少し、複雑な気持ちだった。
友人が女王になったことに、なんの不満も無い。
でも大切なひとと結ばれたかったのは、あなたじゃなかったの?
そう、想い人がいたのは、ロザリアの方。皮肉ね。
ただアンジェリークにはわかっていた。
だからこそ、彼女が女王になったのだということ。
自分と彼女の違い、それは、この宇宙を愛しいと思う気持ちだ。
それは、ひとを愛したことのない人間には、とうてい分からないものなのだろう。
―― 前から、綺麗な人だった。でも、今女王になった彼女は女の自分でさえどきりとするほど美しい。
人の幸せって、なんなんだろう?
まだまだ、未熟だなあ。
友人をみやりながら、つくづくそう思うアンジェリークであった。

◇◆◇◆◇

空が、青いわ。
寝室の窓から外をぼんやりながめてディアは思う。
こんな感じの青空、いつかも見たわ。いつだったかしら?
ああ、そうだ、女王補佐官として聖地に残る方法もあるってルヴァに教えてもらったあの日。
はじめて、女王になるということがどういうことか気付いてしまったあの日と同じ。
知らずに彼女の美しい瞳から涙が零れる。

アンジェリーク……!
なぜ?
言ったじゃない。
「あの頃のように、アンジェリークと呼んで」
って。
「これから私たち、もう一度あの頃に戻るのよ」
って!

虚無の空間が完全に閉じる寸前、ディアを光の方へと突き飛ばした親友の手。
そして、意識の中にとどいたその声。

―― ごめんね、あの時、彼と一緒に、聖地を去りたかったのでしょ?ごめんね

それはあなたも似たようなもののはずよ、アンジェリーク。すべてをわかった上で、私たち、それでも親友だったはず。
そしてこの宇宙、一緒に守ってきた。
鳴咽が漏れる。
ひらかれた窓から花の香りを微かに含んだ風がカーテンをゆらして流れ込み、彼女の結われていない髪をなぜた。
そしてディアは思う。
―― クラヴィスは今、どうしているのかしら
と。

◇◆◇◆◇

「おっと。こいつは水の守護聖のどの。また、いつものように愁い顔だな」
静かな夜だった。
ひとり想うことあって何処ともなく森の中を歩いていたオスカーは向こうからやってきたリュミエールに声を掛ける。
その向こうの道は、闇の守護聖の館へと続く。どうやら、ハープを聞かせにでも行った帰りなのだろう。
口調が少し突っかかったようなのは、それまでの自分らしくもない心を隠すためだったのかもしれない。
しかし、優しさを司る同僚にその心の内は、あっさりと見抜かれてしまったようである。
突っかかった声に気にもとめず、逆に気遣わしげな視線を向けてリュミエールはゆっくりと会釈し、しばしためらった後に口をひらく。
「そう言う、あなたこそ、らしくない表情をしておいでですよ」
「そう感じたのなら、そいつは気のせいだな。いや、この静かな、夜のせい、かな」
「そうですね、あなたは、強いひとですから。少なくとも、御自分ではそうお思いなのでしょう?」
「何が、言いたい」
強い、アイスブルーの視線。
その視線に、このはかなげな水の守護聖は、かつて一度も引いたことがない。
外見にだまされるが、こいつはかなり強情だ。まったく、扱いにくいったらありゃしない。
いつも、オスカーはそう思っていた。
「いえ、ただあなたも、痛みを内側に隠しているのではないかと」
鏡のように平穏な水面にさえいささかの波風も立ちそうのない、静かな声が逆に神経に障ったらしい。
「―― 『も』か」
わざとらしく強調し、リュミエールの手にしたハープに向かい顎をしゃくる。
「ご苦労なことだな、毎日通っているのか」
オスカーの問いかけにリュミエールはしずかに頷く
「でも、お会いしていないのです」
「なに?」
「一度だけ、即位の儀の日に…『私に、かまうな』と強い口調でおっしゃいました。その後から、お会いしていません。」
―― あの方が声を荒げるのを、はじめて見ました。
本来、穏やかに訪れるはずだったふたりの別れ。
お互いの覚悟は、静かな絆の中で決められていたのだろう。
聖地を去り、もちろん異なる時の流れの中でいつかは私たちよりも早く訪れるであろう彼女の魂の終焉。
けれど、そうならば、これほどの痛みを伴うはずがなかった。

「おまえも、いろいろと大変だな。あんまり根つめておまえの方こそ参るなよ」
その言葉に、もう刺は含まれていなかった。
全く正反対の自分達、でも、似ていなくもない。そうオスカーは感じる。
リュミエールも素直に微笑んだ。
「ええ、今日はもう帰って休みます。オスカー、あなたは?」
「もう少し、散策するさ。送ってやれなくて、悪いな」
にやり、と笑う。
リュミエールの笑みが、ひくり、と引きつった。
「前々から思ってはいたのですがあなたは私を女性扱いしてはいませんか?」
怒りを抑えて、声と拳が微かに震えている。
―― 怒ってはいけない、怒ってははいけない。こんな奴の戯言いちいち気にしてははいけない。
彼の心の中の呪文が聞こえるようである。
「冗談いうなよ。まあ、おまえの妹君だったらぜひ紹介して欲もらいたいものだな」
「オスカー!」
ついに怒りを露わにしたリュミエールにあははと笑って歩き出す。
「そう、そうやって、おまえもたまには怒った方がいい。じゃあな」
闇に紛れ行く深紅の髪を見送りながら、リュミエールは複雑な面持ちでため息を吐いた。

また、ひとり歩きながらオスカーは様々な想いに心を巡らしていた。
中でも、先程のリュミエールとの会話に、闇の守護聖のことを思う。そして、光の守護聖のことも。
新女王の誕生の日から、いや、正しくは「前女王が帰らなかった日から」クラヴィスは全くその姿を見せない。無論、職務も以前にも増して放棄状態である。
嫌でも聖地の同僚達はその理由に思い当たってしまう。さらにそのクラヴィスの様子に何も言わないジュリアスの姿。
彼は同僚の職務をルヴァと分担肩代わりして、その執務をオスカーも手伝った。
その時、ふと彼は言ったのである。
「オスカー、そなたは、これで良かったのか?」
と。
ジュリアス様は、すべてご存知だったのだ。クラヴィス様のことも、そして、俺のことも。
オスカーはそう思わずにいられない。
結局、「何のことか、わかりかねます」そう答えてしまった自分。
―― あの方に、余計な御心労はかけたくはない。守護聖の長という立場と、あの方自信の人間性の間で、人一倍傷つきやすく、繊細な方だからこそ。

ふいに、オスカーは「闇が濃くなった」そう感じて足をとめる。
なぜだろう、空を見ても、かさなりあう木々のあいだから覗く降るような星の輝きに変化はない。
いつのまにか、クラヴィス様の館の側に来てしまっていたんだな。
辺りに満ちる安らぎの気配。けれど今はそれも深く闇によどみ重苦しく感じる気がする。
踵を返し戻ろうとする彼にかけられた声があった。
「……迷い人がいるようだな。迷っているのは闇深き森の道にか、それとも己の『弱さ』にか?炎の守護聖よ」
くつくつと笑う乾いた声。
どのような意味ですか。それは。という言葉が喉まででかかったが、黙って振り向きその声の主を睨む。アイスブルーの瞳に青白い焔を煌かせて。
クラヴィスはそれに気にもとめず自分の言葉を続ける。
「これも、運命か。皮肉なものだな」

しかし、メイファン殿のようには、私はいかぬな。この若い守護聖になにも伝えられぬ。だが。

「せいぜい、守ってやることだな。その『強さ』で。……おまえの守るべき人を」
オスカーの瞳の焔が消える。
「先の女王のよう、ひとり宇宙の犠牲にならぬように。私に言われるまでもないか……」
ふ、と自嘲に近い笑みをこぼす。静かに立ち去ろうとするクラヴィスに、ようやっとオスカーは声をかけた。
「みながあなたを心配しています。―― ジュリアス様も」
何を言っているんだ、俺は、と思いつつ、すでに言葉は口を出たあとである。
無視して去るであろうと思っていた闇の守護聖は、僅かに振り向き口の端を上げるだけの、でも確かな微笑みを漏らしていた。
「そうか」
そう言うと、直にいつもの無表情に戻り、闇の中へと紛れて行った。

クラヴィスの微笑みに暫く目を点にしていたオスカーは冷たい夜風に我に返る。
―― リュミエールの怒り顔より、珍しいもん見ちまった。
そう考えながら、クラヴィスの言葉を思い起こす。
己の弱さに迷っているのか、と。
そして改めて決心する。自らのサクリアで女王にした愛しいひとを、この命かけて守ろうと。
この先、どんなことがあっても。
守ってやれ、か。あの人も、そうしたかったのだろうな。
ふいに込み上げてくるものに、目の前の景色がにじんだ。
慌てて空を見上げる。煌く星々はどこまでも美しい。
宇宙は、静かに、正常に導かれている。ロザリアを女王にしたことは、けして間違ってはいなかった。
そう思い、
「さあ、俺も帰るか」
炎の守護聖はゆっくりと歩き出した。

◇◆◇◆◇

翌日、久方ぶりに姿を見せた闇の守護聖に、恒例のジュリアスの雷が落ちた。
「ここ数日の職務怠慢、しかと取り戻してもらうぞ!」
いつもと変わらないジュリアスと、それを飄々と受け流すいつもと変わらないクラヴィス。
いつもと変わらない、聖地の日々が再び始まる、かのようにみえた。


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